株式会社丸山運送|Maruyama the 080
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丸山運送物語 (敬称略)
Year- 1960~
創業当時の日本
創業当時の日本

日米安全保障条約(安保条約)に反対する勢力による空前の規模の反政府運動により日本中が騒然とする中、昭和35年、池田内閣は「所得倍増計画」を発表。経済成長率を9%前後で持続し、10年間で国民総生産・国民所得ともに倍増させようというものでしたが、日本の経済成長は予想を越える平均10.9%で推移し、経済大国への道を歩み始めました。丸山運送が創業した昭和37年は、そのような好景気の真っただ中でした。そして、2年後に開催される「東京オリンピック」に向けて日本は一丸となり、益々の猛スピードで発展を遂げていきます。

Year- 1962~
創業者・三浦武雄の思い創業わずか3年目にして大きな岐路に
創業者 故・三浦武雄
創業者・三浦武雄の思い

昭和37年当時、八幡製鉄(現・新日鉄住金)の関連会社であった九州製罐(現・大和製罐)を荷主として特定免許を取得し、丸山運送はトラック1台からスタートしました。折しも、日本は好景気。その景気の波に乗り順調に売り上げを確保すると共にトラックの台数・従業員数も徐々に増えていきました。
しかしながら、特定免許ということで他のお客様の荷物を運ぶことはできません。お客様は九州製罐のみです。そして昭和40年、唯一の取引先である九州製罐が、清水工場建設、大阪工場建設と次々事業を拡大させている大和製罐に吸収合併されました。それと同時に、多くの取引業者の見直しと入れ替えが行われることになったのです。もちろん、当社もその対象業者。順調にスタートし、安定した経営を実現できるかに見えた当社は、創業わずか3年目にして大きな岐路に立たされることになったのです。
その逆境において、大いに役立ったのが「荷主は神様。与えられた仕事は何が何でも全うする。他社が一日に1回しか行けないところを2回、3回行く」という姿勢を頑なに貫いてきた創業者・三浦武雄の仕事ぶりでした。物流の担当者から突き付けられる数々の無理難題に対して真摯に向き合い、解決策を提示し、取引先とともに困難を乗り越える。この仕事ぶりに対する高い評価が九州製罐から大和製罐へと引き継がれ、創業から間もない当社の経営は再び安定を取り戻すことができたのです。

Year- 1981~
転換期
転換期

昭和56年、会社は長男の三浦一夫に引き継がれました。しかし、創業20年を間近に控えたその当時も、車両8台、社員8名。大和製罐の仕事だけでのんびりと経営を続けていました。従って、売り上げは大和製罐の業績がそのままスライドするものとなっていたのです。
仕事量が安定しているとはいえ、大和製罐には競合各社の営業マンが足繁く通っており、様々な提案を繰り返しています。他方、丸山運送の評判を聞きつけた新規のお客様から仕事の依頼が舞い込むことが増えてきたのですが、当時の特定免許では大和製罐以外の仕事を請け負うことができず、せっかくのチャンスを活かせないジレンマを抱えていました。
このような状況に、社長の三浦は売上を一社に依存する経営に危機感をおぼえると共に、新しい仕事に挑戦したいという希望を強く抱くようになりました。
そのようなことから、昭和60年、あらゆる荷主様の仕事を請け負うことができる一般貨物運送の免許を取得し、地元の有力企業に対する積極的な営業活動を開始しました。もちろん、営業マンと呼べるのは三浦ただ一人でした。

Year- 1985~
成長期
成長期

昭和60年、晴れて一般貨物運送の免許を取得したことにより、三浦は地元企業を中心に積極的な営業活動をスタートさせました。分けても力を注いだターゲットが、世界が驚く画期的な新製品ウォークマン、 8ミリビデオなどで市場に猛烈な攻勢をかけ1兆円企業を目指そうとしていたソニーです。ソニーとしては、世界戦略に伴う出荷量の急拡大が想定されていたことから物流力の補強が必要な状況でした。しかし、トラック輸送する製品は振動や湿気を嫌う精密機械。これまで缶詰しか扱ったことのない当社にとって、ソニーから突き付けられる条件は目が点になるような厳しいものばかり。その条件ひとつ一つを3年がかりでクリアし、昭和63年、ようやく運送契約を締結することができました。
以降、ウォークマン、8ミリビデオ、ビデオテープ(VHS、BETA,8ミリ)、CD、MDなどのレコーディング・メディアからプレイステーションに至るまで、次々とヒット商品を世に送り出すソニーの仕事は急激に拡大。延べ6500万枚に上る発行枚数のSuicaもソニーが製造し、当社がJR東日本(品川)に納品を行いました。そして、気が付けばソニーと運送契約を締結していた運送会社5社の中で、最後発の当社が物流扱い量においてトップシェアとなっていたのです。そのことは、ドライバーをはじめ社員全員が「世界のソニーの製品輸送に携わる誇りと喜びに、夢中になって仕事に取り組んだ成果だったのです。そして、仕事の量が増えるにしたがって、当社の売上・トラックの保有台数・社員数も急激に拡大したのです。
しかし、ここに至って過去と同様の問題に直面することになりました。気が付けば売上の70%近くをソニーが占めるまでに拡大しており、過去における特定免許のときと同様、一社の売上に依存する経営に陥っていたのです。当時、仕事上で大変お世話になっていたソニーの本部長にも、そのことをご心配いただき「ソニーの物流を担っているということは、非常にレベルの高い輸送業務を行っている証だ。そのことをセールスポイントとして、他社の仕事をどんどん取り込み、売上構成比を健全なものにするように」という愛情のこもったお言葉を頂戴しました。そして、本部長からのお言葉を実践に移し、東洋水産、東京エレクトロン、旭ガラス、アイリスオーヤマ、フジフィルムなど、名だたる企業を矢継ぎ早に新しいお客様に加えていったのです。
当社の物流ノウハウの多くはソニーの仕事から、新たな取引先はソニーの物流を担っていることによる信用によって獲得してきたのです。丸山運送は、ソニーというすばらしい企業に育てられたといっても過言ではありません。

Year- 2011~
震災、そして復興
震災、そして復興

創業50周年を翌年に控えた2011年3月1日、社員数180名、年間の売上高20億円を超える規模にまで成長を遂げた当社は、多くのお取引先さまに仙台市中心部のホテルにお集まりいただき、恒例となった経営方針説明会を開催。社長の三浦は、50周年に向けた基本方針と成長戦略を大々的に発表しました。そして社員一丸となって50周年を迎えようと走りはじめた矢先に「3.11」が発生したのです。
その日、午後2時46分、東北地方は巨大な揺れに見舞われました。仙台港の埠頭から約500メートルの距離に位置する当社は、気象庁から発令された大津波警報を受け、直ちに社員を近所のショッピングセンターに避難させ、三浦と社員数名で本社に隣接する社員用立体駐車場に上りました。そのとき会社から持ち出すことができたのはMCA無線機のみ。
立体駐車場は、地上4階建。鉄骨を組んだ頑丈な構造で、地震の揺れにはびくともしません。しかしながら屋根も壁もない露天。その最上階から無線を使って運航中の全車両に海岸線から離れるよう指示を出した直後、巨大な真黒い海水の壁が迫ってきました。駐車場に避難した社員全員が死を覚悟した瞬間です。
襲ってきた津波は、想像を遥かに超える規模。轟音とともに流されるトレーラー、陸地であるはずの場所に漂う貨物船、コンテナがぶつかり折れる電柱、逃げ遅れて波にのまれる人など、目の前で展開される悪魔の仕業のような自然の猛威に為すすべなく眺めるだけでした。気が付けば、駐車場4階に避難した自分たちの足元まで海水が迫ってきましたが、水位の上昇はギリギリのところで止まりました。そのときの気温は氷点下。身動きが取れない状態のまま、その場で極寒の夜を過ごすことになったのです。

社員全員の安否を確認
社員全員の安否を確認

東の空が白みはじめた翌日午前5時頃、目の前に広がっている地獄の光景に、全員が言葉を失いました。その被害状況は、ニュース番組や新聞で報道された通り。凄惨な光景の真っただ中で自分たちが生き残ったこと、そこに会社が存在していたのだということが、俄かに信じられない思いでした。そして、家族は?家は?会社は?社員は?トラックは?これからどうすべきなのか?次々と沸き起こる疑問と不安に押しつぶされそうになりながら、足元に残る海水がひくのを待ったのです。
この震災における被害は、社屋、倉庫、整備工場全壊。営業車(トラック)58台、社員所有車47台、フォークリフト2台が津波により流出。本社施設のほぼすべてを失い、社員の誰もが事業の継続を危ぶむ事態に陥りました。
そのような中で、被災から2日目に確認が取れた全社員生存という事実が、絶望の闇に差し込む一条の光だったのです。
この震災により、本社とその周辺地域は瓦礫の山となりました。通信インフラもズタズタに破壊され、固定電話はもちろんのこと継携帯電話も全く使えない中、被災から2日という誰もが驚くようなスピードで社員180名全員の安否確認ができたのは、迫り来る津波を前に、ある社員がとっさの判断で持ち出したMCA無線機があったからです。それが、唯一の通信手段として機能し、被災を免れた拠点との連絡網を構築。新たな一歩を踏み出すきっかけにもなりました。

復興への決意を新たに
復興への決意を新たに

震災が発生してから3日目、被災地ではようやく行方不明者の本格的な捜索活動がはじまろうとしていました。その日、出社可能な社員がヘドロと瓦礫に埋もれた本社に集まり朝礼を敢行。これから先の生活のことで不安に駆られている社員を前に三浦は、「50周年に向けて発表した経営方針を堅持し、わが社は前進をつづける」という決意を声高に宣言。それを聞いた社員は唖然。社屋、倉庫、トラックなど仕事に必要な道具のすべてを失い、更にお客様からお預かりしている荷物の所在すらわからない状態です。誰が見ても事業の継続など想像すらできません。そのような状況で投げかけられた思いもよらない三浦の言葉に、社員たちの心は震え、涙をながしました。
丸山運送が、復興に向かって第一歩を踏み出した瞬間です。
自宅が海水に浸かり、自家用車をも失った三浦であったが、個人の問題は家族に任せ、自らは自転車に乗って会社の復旧に奔走。電気、通信、ガス、水道はおろか道路の復旧すら遅々として進まない中、本社機能の回復、被害状況の把握と取引先への報告、金融機関への状況説明、被災した社員の生活再建など、瓦礫と同様山のように積み上がった復旧作業をひとつ一つ丁寧にこなし、被災から11日目、事業再開に漕ぎ着けることができました。
幸いにして被災を免れた拠点が、本社に代わって案件をこなすことができたため、取引先を失うことはありませんでした。しかし、本社と岩沼の倉庫が全壊し、保管していた荷物が津波で流出する事態には、真摯にお詫びするほかに方法はありません。その対応には、社長以下動ける社員が手分けしてそれぞれの取引先に出向き、丁寧に状況を説明。殆どの取引先からは心温まるお見舞いの言葉をいただきました。また、ある社員は、
「荷物のことはいいから、必ず復興してください。その日まで待っています」と、当社の復興を期待する励ましのメッセージを頂戴しました。その報告は、全社員に伝えられ、復興への決意を新たにしたのです。全社員が出社できたのは震災から約1か月後。そこから、経営計画の達成に向かう機関車がゆっくり動きはじめたのです。社員が強固に連結された列車は徐々に加速し、震災との距離がどんどん離れていくようでした。仕事に取り組む社員は、もはや被災者ではなく、物流で復興を支援する側に立つ者の顔つきに変わり、既存取引先の案件、新規取引先の案件、復興支援に関わる案件など精力的に取り組んでいきました。その結果、2011年度は前年比110%(売上ベース)を達成。
被災した企業の多くが事業規模の縮小や従業員の解雇などによって何とか急場を凌ごうという動きが目立つ中、当社は業務拡大を推し進め、新たに社員を雇用。震災発生から3日目、瓦礫の中の朝礼で発表した“経営方針を堅持する”という三浦の覚悟に、180名の社員が見事に応えた結果が、対前年110%であったわけです。
その年、三浦が牽引する丸山運送は、復興に向かう奇跡の列車となったのです。

本社移転
本社移転

東北地方沿岸に未曽有の被害をもたらした東日本大震災。津波によって本社機能のすべてを失った当社は、全社員の団結によって奇跡的に回復への道を突き進んでいました。しかしながら、経営計画に盛り込まれた最大の事業である本社移転に関してだけは、社員の誰もが実現に対して懐疑的になっていました。社内では、時期尚早との意見も出されましたが、“経営計画の堅持”という揺るぎない決意と、復興に向き合う社員からもらった勇気に突き動かされて、三浦は敷地6000坪、建屋4000坪の新社屋取得に挑んだのです。震災から3ヶ月。会社の周辺はうずたかく積まれた瓦礫の山。震災の傷跡が生々しく残った状態でした。
果たして、被災した当社が復興のためというより純粋な設備投資として億円単位の巨額な資金をどうしたら調達できるのか、三浦にも見当がつきません。
政府の試算によると、震災による直接的な被害額は16~25兆円とされており、その影響は金融機関にも混沌をもたらしました。このような状況下での融資の交渉は難航を極め、ほとんど門前払いと言っても過言ではないあしらわれ方をされたこともありました。しかし、社員により良い環境を提供したいという三浦の思いと、創業以来50年近くに渡って築いてきた信用、そして粘り強い交渉が金融機関を動かしたのです。
結果として、日本政策金融公庫から資本増強のための融資に加え、別枠で非常に大きな額の融資を受けることができました。
ここから一気に土地・建物の取得契約へ進むと共に、社員の有志で本社移転プロジェクトを結成。震災の年、2011年12月23日には、新社屋での事業を開始するという、もう一つの軌跡を全社員が経験したのです

輸送物流 宮城 【株式会社丸山運送】
ブランド「the080」の誕生

震災での経験は、危機管理の在り方、団結の力、あきらめない心など様々な教訓を与えてくれました。中でも社員の心を揺さぶったのは、取引先から頂戴した心温まるお見舞いの言葉であり、当社復活への期待でした。
そのようなことから改めて気付いたのは、私たちの事業を動かしているエネルギーは、ガソリンでも電力でもなく「人の心」だということ。社員の心、家族を思う心、お客様の心、取引先さまの心…
震災から5年、当社のブランディングに当たっては、「心」をテーマとしたものにしたいと考えました。
私たちが幼い頃から馴染んでいる数字は、1・2・3・4・5・6・7・8・9・0 の10種類。これら僅か10種類の数字の組み合わせによって、私たちは数学、健康、経済、世界の動向から宇宙の出来事に至るまで、あらゆるものを表現することが可能です。
そして、10種類ある数字のうち「8」と「0」だけが途切れがなく、左右対称。
私たちは、それを「永遠」と「調和」の象徴と考えました。
永遠の象徴である「8」をセンターに、右に取引先や地域社会の調和、左には当社の調和。
「the 080」には、当社が出会うすべての企業、すべての人々、そして社会の調和と末永い繁栄という丸山運送の願いが込められています。